和田藍が語る「器と暮らし」
その1
暮らしに寄り添うガラス
働き盛りの旦那様と
学校に通う娘がいる我が家は
平日の朝はしっかりお米ごはんの朝食。
なのでたいてい、
こうしてワンプレートにして、パンを食べる。
というのが、週末の朝のお楽しみ。
ワンプレートで盛り付けるときには
ガラスの豆皿がいくつもの顔になって大活躍します。

サラダや和え物をのせたり、
フルーツをのせたり、
バターをのせたり。
プレートの上で立体感が生まれ、
目で見て美しく、
そして食べやすい。
我が家の食卓では、
こうして一年中、河上さんのこのガラスが登場します。
たくさんのガラスの器はある中で
河上さんのガラスは柔らかくて、優しくて...
どんな陶磁器、木の器とあわせても
すーっとその場に馴染み溶け込んでくれる。
だからいつも、日々の食卓に登場させてしまうのだと思います。
がんばらない毎日の食卓にぴったりくるのは、
「普段使い」をテーマに製作される河上さんの意図を
確信させられてしまいます。
河上さんの宙吹きガラスはとてもなめらかで、
たわみや緩やかな曲線がとても美しい。
そしてそこから生まれる陰影はまた格別。
テーブルの上に抜け落ちる光と影は、
まるでアートのようでほんとに素敵です。
ひとつとして同じ顔のものがない宙吹きガラス、
そしてリサイクルガラスによってうまれる
淡く、レトロな色合いの河上さんのガラス。
さりげなく、気負わない私たちの日々の暮らしに
そっと寄り添う器です。
シノハラトモユキが語る「器と暮らし」
その1
安藤雅信さんの器のこと
安藤雅信さんの器を毎日見ていて気づいたのが
「また昨日と違う表情をしてるぞ。」
ということ。
僕が今の住まいを借りるときに一番こだわったのが光の入り方でした。
物件を見せていただいたとき、
部屋自体じゃなく光のあたる壁や床の一部をしきりに写真におさめ、
「何してるんですか?」
と不思議な顔をされたのを今でも覚えています(笑)
展示タイトルでもある「うつわのかお」。
その時々の一度しかない光が一度しかない「かお」を照らす。
季節の移ろい、暮らしの色が器に宿っていくような
「間」のようなものを安藤さんの器には感じるのです。

先日、衝動的に安藤さんが手がけるギャルリ百草さんを訪れました。
まさにその「間」が隅々までつまった(とはおかしな言い方ですが)美しい空間でした。
でも、そこには緊張感ただよう美術館のような空気感はなく、
あくまで日々の暮らしを想像できる余白を残してくれているような印象を持ちました。
そこには安藤さんが日用品と美術品を同じ目線で見ているような、
もしくは器がその時々の光や温度などありのままの季節を含み、
そこにありのままの人の暮らしが重なっていくことで器は完成するのだと言われているようでした。
それは庭にたくさんぶらさがっている毛虫たちからも感じました。
その場所をありのまま受け入れ、向き合うこと。
器と向き合うということは土と向き合う=自然とも向き合うことなのかもしれません。

そういえば、以前にジョンケージの4分33秒(4分33秒ピアノの前でいっさい演奏しない曲です。)をたとえに
休日にモノヅクリするときは電気を消して、音楽を消してモノヅクリの音とそのときの光を感じていたいと話をブログに書いたことがありますが、
安藤さんの書籍にもこの曲の事が出てきました。
いっさい演奏しない=無音ではなく、それまで聞こえなかった観客のざわめきや咳払いなど普段聞き取れなかった音を感じることができる。
安藤さんはお茶会にたとえられていますが、作品に魅せられるのはそういった感覚に共感できるからかもしれません。
写真は愛用している銀彩ピューターの器でお茶漬けを食べているところですが、
僕はおかずを乗せないお米とお茶だけのお茶漬けが好きなのです。
(紅茶でいうところのストレートというのでしょうか。)
これからも気負わず、この器がお米とお茶という大地の恵み、そしてこの部屋の光を受けて
どう変化していくのかを楽しみにしたいと思います。